GMブログからの移行記事

[TRPG]作品の評価

 作品の感想を人に伝えるとき「トリックは途中で分かったんだけどね」とか「落ちは最初から読めていたんだけど」などと言う人がいますね。翻って考えると、その人が期待していたモノが分かります。
 

 それは、「トリックの解が途中で分からない」「落ちは最初の段階で読めない」ことを前提として、トリックや落ちへの推論が失敗してかつそれを納得した時に面白いと感じる楽しみ方です。著名な方では、芝村氏が「多くの人間はみんな推論失敗ジャンキーだ」と述べ、前述の内容を語っていますし、ゆうきまさみ氏も「意外な結末」という言葉で、この楽しみ方が娯楽の重要な要素であることを作品内で述べています。

 ただ、念のため誤解が無いように書いておきますけれど、この楽しみ方が一般的だからといって、全ての作品を、楽しい推論失敗が行なえるかどうかの基準のみで評価することは、言うまでもありませんが、見識の低い行ないです。義務教育期間中に習うことなので、真面目に勉強していれば、作品には多様な楽しみ方があることくらい、みなが理解していますよね。

 ・・・何となく「緊張感が無い」と、自分の作ったRPGに低い評価をされた綾部氏が、「俺の作ったゲームは緊張感を楽しんでもらうモノではない!」と反論した時のことを思い出しました(笑)。

 余談ですが、作者の意図とは別に、そこにあるゲームをいかに楽しむかは、プレイヤーの腕が問われている、と私は考えています。カールゴッチは「客を育てなさい」と、受け手を教育するのもプロの仕事と言っていましたけれど、そこまで求めるのは酷な条件ではないかな~、と思っています。私が甘いだけかも知れませんがね。

 まあ、それは兎も角、何だかんだ言いつつも、推論が失敗すると気持ちが良いので、その気持ち良さがあったか無かったかを、作品の評価に含むのは、当然のことだと思います。

 しかし、今回私が言いたいのは、焦点のあて方が間違っているレビューは、あまりにも多い、という事実です。多くの素人レビューに見られる失敗ですが、トリックや落ちにばかり目を奪われ、主題を見逃していることが往往にしてあります。
 

ヴィレッジ [DVD]

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 ヴィレッジでは、村の謎を予測できたかどうかを競うように書き、シークレットウインドウでは、こぞって犯人は途中で分かったと書く。私はそんな自称批評文を読んで、作者の罠に「ひっかからなかったよ」と言いつつ、まんまとミスリードに乗っている貴方の文章は批評ではなく感想だよ、と教えてあげたい。彼らの文章には、舞台装置としての村や、物語や言葉の意味、辻褄や登場人物に対する考察が足りていません。

 あげく「お前らローマ帝国時代万歳なんだよ!(意訳)」とテロップの入るグラディエーターの批評で「侵略いくない!帝国いくない!」と書く人までいます。まったく・・・頭が痛くなる。感想なら問題ないのですが、批評文というのなら、自分語りを控えて、主題をみすえた作品への評価を書くべきでしょう。

 そんな低い見識でいるから、素人レビュアーは平気で「ハリーポッターは素晴らしい作品だ」なんて言うのですよ。

 いいですか? ハリーポッターは、育ててくれた養父を魔法で苦しめる、悪魔のような子供なんです。よく御覧なさい! この作品は、養父家族に対して魔法による陰湿な暴力をふるうオープニングから始まっているんです! こっ、これが! 自分達が被害者側だったら許せるんでしゅか!? いくない! ハリーいくない! ムギャオー!(`Д´*)

 ・・・・・・・・すみません。 冗談なので、本気で怒らないでください(笑)

 さて、ではこのエントリは、どこからが冗談でしょうか? 貴方はもしかすると、私のミスリードに乗せられているかも知れません。

いつだって、自分で考えながら、ブログを読み、小説を読み、ドラマを見て、映画に触れ、世論を知り、歴史を鑑みながら評価する目を養うことが、人生を豊かにするのだと、私は信じています。